もうずいぶん前、小学校6年生の時の音楽の時間に「君が代」を佐藤先生に習った。
佐藤先生という人は、非常に厳しい人だった。気を入れて歌ってない事がばれるとただちに怒声が飛んでくる。頭をはたかれる事もよくあった。背丈は割と小柄だったような気がする。
そんな佐藤先生だったが、生徒には何故か人気があった。ある時などは、もう卒業した中学の生徒が、授業中(!)に先生の所に相談に来て、うちらの授業を15分くらいほったらかして、(実際は、このレコード聞いとけ、みたいな自習に近かったが)悩みを聞いていた。やがて出てくると、君が代を歌う事になった。

「きーみーがぁーあーよーはー」と歌ってみると判るのだが、小学生には妙に間延びして歌いにくい。何より、チャカチャカしているほうが好きな子供には尚更、タイミングが合わない。

何回か練習して、ようやく揃いだしたので
「よっしゃ本番いくぞ!」
と先生に言われて、みんな気を入れなおして歌いだす。
その時、
「プァーープァーープアーープアーー~」

それはトランペットの音だった。中学の制服を着た、恐らく佐藤先生に会いに来た彼が隣の部屋から、君が代のメロディーをトランペットで一生懸命吹きながら
現れたのだ。

「えーーー?!」

ざわつく僕ら、だが佐藤先生は右手を大きく動かしながら

「続けて~!」 そう言った。


けれど、ぎこちない彼のトランペットは何か途中で音程をはずし、いかにもおかしな音をつむぎだす。

顔を真っ赤にしながら吹くのだけど、ついに途中でペットを降ろしてしまうのだ。

途端に佐藤先生の怒声が飛ぶ。

「お前は、始めたんなら最後までやらんか!」

一体、何が起こっているのか判らない。僕たちはとにかく判らないながらも、ペットに合わせるように、そしてどうにかこうにか歌い終わるまでの短い時間が過ぎた。

歌は終わり、始まった最初に戻ったかのように、彼は隣の部屋に消えた。

佐藤先生は、まるで何も起こらなかったかのように授業を続ける。

「さざれ石のいわおとなりて」

「これは川に流れる石が、転がるうちにやがて大きな石になるくらい長い年月」

子供は現金なもので、何事も無かったかのように授業を続ける佐藤先生の講義に

(川の中を流れる石は小さくなるだけで、大きくなるわけ無いじゃん!)

そんな事を考えていた。

やがて、何事も無かったかのように授業は終わった。

けれど、僕のもやもや感は尽きることが無かった。

あれから何十年たっただろうか。ふと当時の疑問を思い出して、さざれ石で検索してみた。



「さざれ石」 は比喩ではなかった  巌(いわお)となるのは本当だった
http://homepage3.nifty.com/tak-shonai/intelvt/intelvt_021.htm

何だと?


引用

問題は 「さざれ石の巌となりて」 の部分である。彼は、この部分は直訳できないと主張するのである。西欧人は論理的思考をするから、大きな岩が崩壊して小さな石になることはあっても、「小さな石が巌のように大きくなるわけがない」 と考えざるを得ず、そうした矛盾は耐え難いと言うのだ。

そこで登場したのが、仮定法を使った比喩的表現である。"As if ~" (あたかも~であるかの如く) という表現を使って解決しているのである。

つまり、「あたかも、小さな石が大きな岩に成長するが如きの長い長い間」 という表現にしてしまったのである。(残念ながら、彼の正確な英訳文は忘れた) これも目の付け所はなかなか素晴らしい。

ところが、私は最近知ってしまったのである。これは 「あり得ない話」 でもなく、「比喩」 でもなく、現実にある話だったのだ。


さざれ石とは、「石灰石が長い年月の間に、雨水で溶解され、その時に生じた粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)が次第に小石を凝結して、だんだん巨石となり、河川の浸食作用により地表に露出し、苔むしたものです」


ここまで引用


万葉集から引用したと言われる「君が代」の、意外な真実(僕にとって)が、そこにあった。

途端、小学生の時の不可思議な情景が僕の頭の中で湧きあがり、何か憑き物が落ちたような感じがした。

一体、今思えば、中学生の制服を着て、授業中の昼間に現れたあの時の彼は何だったのか。授業をほったらかして、彼の話を聞いていた佐藤先生は、今どうしているのだろう。

あれは、当時は何も考えずにその場の空気に流され合わしていたけど、ひょっとして何か重大な事件が起こっていたのかもしれないと、ふと。

まあ、そんな気がした午後3時。

まあ、そんな感じで。


コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索