まあ久しぶりに文章を書いてみる。

 最近、公私共に壊れているのでまともな文章にならないかもしれないけど。

 ちょっと、死刑に賛成できないというお話をみて、その内容が非常に
おもしろく興味深く肯定できたので触発されて書いてみる。

 だのに内容の方向性が違うのは風神のご愛嬌である。

 裁きで与えられるのは罰であろうと思う。罰とは?やってはいけない行為を
犯した人間に対する戒め。負荷。マイナス行為。

 小学生の時、宿題を忘れると授業中にずっと立たされた。それが嫌だから
宿題をやった。さてこの時に、人生最初の別れ道がある。

 君は立たされるのが嫌で宿題をやったのか?

 立たされてもいいから宿題をやらなかったのか?

 やろうとしたけど、難しくて出来ず仕方なく立たされたのか?

 ここに罰の限界がある。そもそも罰せられるのが嫌だから犯罪を犯さないのか?
そして罰に値する罪とは?

 抑止? 

 ここに至って、何故犯罪を犯してはいけないのか?あるいは、極端に言うと
何故ひとを殺してはいけないのか?という道徳論までが首をもたげてくる。

 罰というものが、世の中から隔離するためにくだされるのか、本人に対する
戒めとして与えられるのか。じゃあ死刑は?殺しちゃったら戒めにならないんじゃ
ない?

 ちなみに、私自身は死刑を認めるが、正直 今の死刑のやり方には疑問を
持っている。

 それはつまり、ひと一人を殺すにしては余りにも茫漠としている。何が
言いたいかというと、法務大臣がサインしようが報道がなされようが、
壁の向こう側、つまりリアルに想像する事が出来ない死は夢の中、同然で
意味をなさないと思うのだ。

 もっと具体的に言うと 今の死刑のやり方だと 余りにも壁の向こう側
すぎて死にたい人間が犯罪を犯すのを止められないと思うのだ。

 死刑にするのなら、サインや法律でもてあそぶのではなく、見世物にして
さらさないと意味が無い。少なくとも抑止にならない。死にたくないと、
泣き叫びながら殺されて初めて、1個の命が無くなる意味が生まれるのである。

 血の凍るような惨劇があって初めて命を無くす刑の意味が現れるのである。

 せっかく、ひとつの命を無くすのだ。それくらいの意味と価値を与えなくて
何が死刑だ。

 今の死刑の形は軽すぎる。いつ死んだか判らないような死刑に死刑の価値など
認められない。 
 
 中世、死刑は権力者の見世物であった。獄門さらし首や石打ち死刑などは
その典型だろう。だが、死ぬ瞬間を民衆に見せる事に意味があったのは確かだ。

 
 今の死刑は 単に命を玩んでいる様に私には思える。

  


 

コメント

KEM
2009年7月30日4:55

見たがる変態が沸きそうな悪寒も。

塀の向こうを想像して恐れる人間がいる一方で、自分が首チョンパする直前まで事の重大さが認識できなさそうな人間がいる可能性もあると思います。結局どこに合わせるかは難しい問題なのでしょうね。

haifon
2009年7月30日8:34

いろいろ法思想差異とか書こうと思ったけど長文になりそうだから止めた。

死にたい人間が犯罪を犯すのは、刑罰の抑止力が効かないんじゃなくて、
想像力が欠如してるというか、痛みを知らないんじゃないかなと思う。

公開とか遺族による死刑執行とかあるけど、
個人的にはそういう公開による恐怖感や被害者感情の排除をして、
機械的に機能するからこそ死刑が認められると思う。
倫理観や感情に訴えようとすると私刑に近くなる気がする。

nophoto
SEさん
2009年7月30日20:46

 ゴールド・エクスペリエンス・レクイエムのスタンド能力は
究極の「死刑執行」であると思った、今日この頃です。

loving-c.
loving-c.
2009年7月31日21:05

僕の7月29日の日記にコメントいただき、
誠にありがとうございます。
(すなわち、「死刑に賛成できない」という話を書いたのは、
僕です。)

>裁きで与えられるのは罰であろうと思う。
>罰とは?やってはいけない行為を
>犯した人間に対する戒め。負荷。マイナス行為。
罰についての風神REDさんの定義には、大部分において賛成なのです。
すなわち僕も、罰とは、
ルール違反行為に対する否定としての害悪だと考えるのです。

ただ、失礼ながら、公開処刑、
それも「血の凍るような惨劇」によって公衆に恐怖心を与え、
それによって犯罪を抑止すべきだ、
というお考えには賛成できません。
このような残虐刑の威嚇による抑止は、
公衆に対する脅し、それもテロに近いと思います。
ある私人が他の私人を脅すことが許されないなら、
人の集まりである国家が公衆を脅すことも許されない、
と思えてならないのです。
その点は措くにせよ、KEMさんが指摘される
「見たがる変態が沸きそうな」恐れも正当だと思います・


風神RED
2009年7月31日23:18

皆様方、コメントありがとうございます。
特にloving-c.さん。反応ありがとう~。私がloving-c.さんの日記を読んで
非常におもしろく興味深く肯定できた理由は、今ある死刑有用無用論はその
ほとんどが死刑自体が有効か無効か論じているのに対して、loving-c.さんの
死刑の矛先が自らに向かう時、それを受容できるかというような書き込みが
非常にズガガーンな感じの目から鱗に思えたわけです。
 成る程、罰が権力者の道具として用いられた時、その矛先は必ずしも罪人で
あるとは限らない(そういう意味で言われたのではないかもしれませんが)
今の平和な日本においてこの思考は非常に興味深かったです。
 ところで私は決して、「血の凍るような惨劇」によって公衆に恐怖心を与え、
それによって犯罪を抑止すべきだ、とは考えておりません。今の死刑の形が
余りにも意味が無いのでは?という問題提起です。誰がボタンを押したか
判らないように、いつ執行されたかされるのか?いつの間にか、まるで
クサイものにフタをするかのような現行の死刑に意味がないのでは?という
ことです。クサイものにフタをするだけなら無期懲役と大差ないのでは?
死刑の方が重いはずでしょう?ということです。
 大切な命を無くした罪を、同じ命であがなわせるのならば、命の重さを
感じさせながら失わせなければならないと思います。そして又、それを執行
する側も誰がボタンを押したか判らないようにするべきではなく、執行人を
職業として堂々と命を奪うべきであると思います。誰が殺したか判らないように
するって、有り得ません。
 そして又、公開にする事は執行される側にも意味があります。どのように
死んでいくか。泣き叫びながら死んでいくのか、少壮と死に挑むのか。最期に
何を語るのか。
 死刑が極刑であるのなら、文字通り極刑であらねばなりません。
 少なくとも、大臣の気持ちひとつでされたりされなかったりするもので
あってはならないと思います。

 まあ、死刑ありきの考えではありますがね。
そのへんが、内容の方向性が違うのは風神のご愛嬌である。 と書いた理由ですよ。

 

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