山本五十六にとって真珠湾はなんだったんでしょう?
僕には彼の、ざまあみろ!って言う意趣返しみたいなものに感じられて
なりません。ロンドン軍縮条約の時まで、彼は強硬に対米英比率を抑えられる
事に反対していました。会議の席で強硬に日本の海軍比率を上昇させることを
主張していましたし。
その彼が海軍航空隊拡充に尽力したのは、航空機が軍縮の規定からはずれて
いたからに他なりません。いわゆる対米7割に抑えられた戦艦保有率。それに
替わるものとして航空機の拡充を急いだのは自然の成り行きだったのです。
しかしながら当時の大日本帝国海軍において、既定は艦隊決戦指向でした。
仮に対米戦が行われたとして、フィリピンを助けに来攻する米戦艦群との洋上決戦こそが、起こりうる現実の予想だった訳です。
そんな、わざわざ太平洋を横断してアメリカ艦隊が大挙のこのこ出てくるか?
そういう意見もありましょうが、当時は充分有り得る事態だったのです。
民主主義の国としてフィリピンに駐留する数万の米兵を見捨てる事は有り得ない
ですし、何より日本海海戦という至近の過去においては太平洋横断どころか、
長躯黒海からアフリカ周りで日本海に来襲するという事例もあった訳ですから。
太平洋戦争で名を挙げたニミッツやスプルーアンス。彼らなどは尉官時代に
日本を訪れ、東郷平八郎との面会を熱望するほどであったのです。
特にスプルーアンスは、大和最期の出撃においては、彼自らが戦艦vs戦艦での
砲撃戦で大和に引導を渡すのが礼儀であるとさえ考えていた節があります。
ミッチャーの独断索敵行動に阻まれましたが・・・・・まあ、この話は本筋から
脱線するので置いといて。
大日本帝国海軍がいかに艦隊決戦指向を望んでいたかを端的にあらわすのに
うってつけの船があります。重雷装艦をご存知でしょうか?
琢磨型軽巡洋艦を改造したこの船は片舷に61cm4連装魚雷発射管を5基も積んでいましたが、次装填無し。
つまり片舷発射20発、回頭後もう片舷発射20発でお役ごめん
という、艦隊決戦時の為にのみ活躍できる船でした。
潜水艦においては、艦尾に魚雷発射管を設けた艦型は存在しませんでした。
後ろに魚雷発射管を持つ意義は、通商破壊戦において離脱時に敵護衛艦に反撃する為に米英は率先して設けていましたが、
帝国海軍において潜水艦は艦隊決戦に先立ち、敵海上戦力を削減するのが目的でありましたから、後ろに魚雷発射管を設ける発想自体がなかったのです。
まあ、そんな訳で営々と帝国海軍は艦隊決戦のための海軍を築いてきた訳ですがそんな数十年に渡る努力を粉微塵に打ち砕いたのが真珠湾攻撃でもありました。
真珠湾において、あろうことか米戦艦群が一挙に行動不能になってしまった訳であります。こうなってしまえば米軍としても、艦隊決戦したくとも駒がありませんから、残された巡洋艦・空母でゲリラ的に戦うしかなくなった訳です。
もしも真珠湾がなく、軍令部の意向通りに南方作戦に空母が使われていたら?
さあ、どうなっていたでしょう。
真珠湾当時、柱島に帝国海軍戦艦部隊が待機していたのは南雲部隊が真珠湾攻撃後に、長躯出撃してくるであろう米戦艦主力艦隊に備えていたからに他なりません。
ああああああああ、もう2:00回ってしまいました。それでは今夜はこの辺で。
脳内変換のみで流し書きしたので駄文かもしれませんが、それでは又。
僕には彼の、ざまあみろ!って言う意趣返しみたいなものに感じられて
なりません。ロンドン軍縮条約の時まで、彼は強硬に対米英比率を抑えられる
事に反対していました。会議の席で強硬に日本の海軍比率を上昇させることを
主張していましたし。
その彼が海軍航空隊拡充に尽力したのは、航空機が軍縮の規定からはずれて
いたからに他なりません。いわゆる対米7割に抑えられた戦艦保有率。それに
替わるものとして航空機の拡充を急いだのは自然の成り行きだったのです。
しかしながら当時の大日本帝国海軍において、既定は艦隊決戦指向でした。
仮に対米戦が行われたとして、フィリピンを助けに来攻する米戦艦群との洋上決戦こそが、起こりうる現実の予想だった訳です。
そんな、わざわざ太平洋を横断してアメリカ艦隊が大挙のこのこ出てくるか?
そういう意見もありましょうが、当時は充分有り得る事態だったのです。
民主主義の国としてフィリピンに駐留する数万の米兵を見捨てる事は有り得ない
ですし、何より日本海海戦という至近の過去においては太平洋横断どころか、
長躯黒海からアフリカ周りで日本海に来襲するという事例もあった訳ですから。
太平洋戦争で名を挙げたニミッツやスプルーアンス。彼らなどは尉官時代に
日本を訪れ、東郷平八郎との面会を熱望するほどであったのです。
特にスプルーアンスは、大和最期の出撃においては、彼自らが戦艦vs戦艦での
砲撃戦で大和に引導を渡すのが礼儀であるとさえ考えていた節があります。
ミッチャーの独断索敵行動に阻まれましたが・・・・・まあ、この話は本筋から
脱線するので置いといて。
大日本帝国海軍がいかに艦隊決戦指向を望んでいたかを端的にあらわすのに
うってつけの船があります。重雷装艦をご存知でしょうか?
琢磨型軽巡洋艦を改造したこの船は片舷に61cm4連装魚雷発射管を5基も積んでいましたが、次装填無し。
つまり片舷発射20発、回頭後もう片舷発射20発でお役ごめん
という、艦隊決戦時の為にのみ活躍できる船でした。
潜水艦においては、艦尾に魚雷発射管を設けた艦型は存在しませんでした。
後ろに魚雷発射管を持つ意義は、通商破壊戦において離脱時に敵護衛艦に反撃する為に米英は率先して設けていましたが、
帝国海軍において潜水艦は艦隊決戦に先立ち、敵海上戦力を削減するのが目的でありましたから、後ろに魚雷発射管を設ける発想自体がなかったのです。
まあ、そんな訳で営々と帝国海軍は艦隊決戦のための海軍を築いてきた訳ですがそんな数十年に渡る努力を粉微塵に打ち砕いたのが真珠湾攻撃でもありました。
真珠湾において、あろうことか米戦艦群が一挙に行動不能になってしまった訳であります。こうなってしまえば米軍としても、艦隊決戦したくとも駒がありませんから、残された巡洋艦・空母でゲリラ的に戦うしかなくなった訳です。
もしも真珠湾がなく、軍令部の意向通りに南方作戦に空母が使われていたら?
さあ、どうなっていたでしょう。
真珠湾当時、柱島に帝国海軍戦艦部隊が待機していたのは南雲部隊が真珠湾攻撃後に、長躯出撃してくるであろう米戦艦主力艦隊に備えていたからに他なりません。
ああああああああ、もう2:00回ってしまいました。それでは今夜はこの辺で。
脳内変換のみで流し書きしたので駄文かもしれませんが、それでは又。
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