またまたハンニバル
2005年11月1日 そいではまた来週とか言いつつ連荘で書くのを許して下さい。
コンバンワ、風神です。
ハンニバルは確かに、古代から近代に至るまで、挙げると
すれば5本の指に入る戦術家なんですが、彼の悲劇は同じ国に
彼のセンスを理解する将軍が存在しなかった、あるいは
学ぼうとしなかったところにあるんですね。
まあ、カルタゴの軍隊自身、根っからの傭兵部隊だったせいも
あるでしょうが、彼の戦略の根本である
敵有効戦力の非戦力化
という一面を真に理解し、そして真摯に学んだのが他でもない
敵国ローマの将軍達であったのも皮肉としかいいようが
ありません。
古来そして現代に至るまで、同じレベルの天才が同じ戦場で
合間見えるのは極めて稀なのですが、ハンニバルがカルタゴ
政府の意思に従って16年間に渡るイタリア半島転戦に終止符を
うち、祖国北アフリカはカルタゴに帰還して合間見えたのが
正にそれでした。
ブブリウス・スキピオ。この若き天才は養父に従って戦い、
カンネーの戦いではハンニバルの包囲機動殲滅戦を目の当たり
にし、特例による執政官昇進からカルタゴ植民地だったスペイン
平定戦、そして北アフリカ・カルタゴ領内への逆侵攻。
ハンニバルがカルタゴ政府によってイタリア半島から呼び
戻された原因は1にも2にも、このスキピオの活躍のせいでも
あります。
自らより10歳以上も若い、スキピオと歴史上名高いザマの会戦
が行われるわけですが、同じ技量の天才同士が同じ戦場で
合間見えるのが稀な事だとすれば、開戦前に当人同士が丘に
立って会談を行うなど、稀有といってもかまわないでしょう。
私は、スキピオ自身が、間切れもなく本人の自覚として、
自らがハンニバルの弟子である
と自認していたに違いないと思えてなりません。
会戦前に捕らえたハンニバル側の斥候3人に、惜しげもなく
自軍の様子を披露したスキピオの姿勢がそれを物語っています。
私はあなたに学びました、今この戦いであなたを超えますよと
結果はスキピオの完勝でした。
この辺、あまり語りたくありません。経過をみれば、ハンニバルの天才ぶりに触れる事ができるのですが、しかし。
余談ですが、スキピオとハンニバル両者とも、晩年は不遇を
囲いました。ハンニバルは逃亡の末に自殺し、スキピオは
カトーに弾劾されて自らローマの中枢から遠ざかっています。
ハンニバルが27歳から、足掛け16年に渡ってほとんど補給なし
で戦いまくった(この辺、現代の常識からすれば有り得ない
んですが)イタリア半島での16年。そして、スキピオが
元老院議員を説き伏せて20代で派遣軍司令官、30台で執政官と
何かに憑かれたようにハンニバルに迫ろうとあがいた(と私には
思える)歳月。
この両者の会合が図らずも、その後、ローマ帝国を地中海
帝国にのし上げていったように思えるのは私だけでしょうか。
それでは、今日はこのへんで。
コンバンワ、風神です。
ハンニバルは確かに、古代から近代に至るまで、挙げると
すれば5本の指に入る戦術家なんですが、彼の悲劇は同じ国に
彼のセンスを理解する将軍が存在しなかった、あるいは
学ぼうとしなかったところにあるんですね。
まあ、カルタゴの軍隊自身、根っからの傭兵部隊だったせいも
あるでしょうが、彼の戦略の根本である
敵有効戦力の非戦力化
という一面を真に理解し、そして真摯に学んだのが他でもない
敵国ローマの将軍達であったのも皮肉としかいいようが
ありません。
古来そして現代に至るまで、同じレベルの天才が同じ戦場で
合間見えるのは極めて稀なのですが、ハンニバルがカルタゴ
政府の意思に従って16年間に渡るイタリア半島転戦に終止符を
うち、祖国北アフリカはカルタゴに帰還して合間見えたのが
正にそれでした。
ブブリウス・スキピオ。この若き天才は養父に従って戦い、
カンネーの戦いではハンニバルの包囲機動殲滅戦を目の当たり
にし、特例による執政官昇進からカルタゴ植民地だったスペイン
平定戦、そして北アフリカ・カルタゴ領内への逆侵攻。
ハンニバルがカルタゴ政府によってイタリア半島から呼び
戻された原因は1にも2にも、このスキピオの活躍のせいでも
あります。
自らより10歳以上も若い、スキピオと歴史上名高いザマの会戦
が行われるわけですが、同じ技量の天才同士が同じ戦場で
合間見えるのが稀な事だとすれば、開戦前に当人同士が丘に
立って会談を行うなど、稀有といってもかまわないでしょう。
私は、スキピオ自身が、間切れもなく本人の自覚として、
自らがハンニバルの弟子である
と自認していたに違いないと思えてなりません。
会戦前に捕らえたハンニバル側の斥候3人に、惜しげもなく
自軍の様子を披露したスキピオの姿勢がそれを物語っています。
私はあなたに学びました、今この戦いであなたを超えますよと
結果はスキピオの完勝でした。
この辺、あまり語りたくありません。経過をみれば、ハンニバルの天才ぶりに触れる事ができるのですが、しかし。
余談ですが、スキピオとハンニバル両者とも、晩年は不遇を
囲いました。ハンニバルは逃亡の末に自殺し、スキピオは
カトーに弾劾されて自らローマの中枢から遠ざかっています。
ハンニバルが27歳から、足掛け16年に渡ってほとんど補給なし
で戦いまくった(この辺、現代の常識からすれば有り得ない
んですが)イタリア半島での16年。そして、スキピオが
元老院議員を説き伏せて20代で派遣軍司令官、30台で執政官と
何かに憑かれたようにハンニバルに迫ろうとあがいた(と私には
思える)歳月。
この両者の会合が図らずも、その後、ローマ帝国を地中海
帝国にのし上げていったように思えるのは私だけでしょうか。
それでは、今日はこのへんで。
コメント